すぎの梨園の歴史

当園で梨栽培がはじまるまで

 

1930年生まれの祖父(故人)がわが家で梨をはじめてから45年が経過しました。千葉県内の梨栽培の歴史は古く、江戸時代から続いているようなところもありますが、わが家の梨栽培の歴史はそれに比べるとまだまだ浅いものです。

 

曾祖父母が分家した直後、わが家では牛を飼っていました。旧制中学時代、毎朝エサとなる草を道端や沼淵で刈ってから学校へ行っていたそうです。出征した後、牛は売却してしまいました。終戦と同時に祖父は就農し、野菜の栽培を始めました。サトイモやサツマイモ、大豆、緑豆を栽培し、現金収入を得ていたといいます。それまで牛のエサとしていた草は堆肥や敷き藁という形で利用していたといいます。

 

学校で農業技術を勉強していたわけでなく、周辺の農家の見様見真似でキュウリの栽培をはじめました。独学でキュウリの栽培技術を研究し、品質が向上、多くの行商屋が買い付けに家の前に並んでいたこともあったといいます。キュウリで成功し結婚。結婚後はサトイモ、キュウリの他にナスやショウガも始めました。

 

祖父が20歳の頃、友人に農業祭りに連れて行ってもらい、「梨」と出会いました。その頃、千葉県内ではすでに現在の市川市や松戸市といった地域が梨の産地として定着していました。地理的に近いということで、ここでも梨が作れるだろうと梨栽培を始める決心をしました。

 

近くの郵便局で梨の苗木代を送金していたところ、偶然、近所の人が居合わせ、何しているのかという話から、その人もおれも梨をやると言い出し、そこからその噂を聞きつけた別の人もやり始め、またそこからといった具合で、この現在は柏市となった沼南地区で何人かが梨栽培を始めました。当時の田舎の話の広まり方は、現在のインターネットと変わらない速さだったのかもしれません。

 

一度梨栽培を始めてみたものの、わが家の農地面積では、梨栽培だけで生活していくのが難しかったといいます。一緒にはじめた近所の人は続けていましたが、わが家では自家用に数本だけ残して、野菜で生計を立てることになりました。これまで続けていた草堆肥を利用した農法で、肥沃な土壌となり、より良い品質の農産物が出来ました。

 

昭和40年代、わが家を支えたのはショウガでした。子供たちを学校に行かせることができたのもショウガのおかげだったといいます。しかし、それも連作障害で先細り、たまたま所有地の移動でまとまった農地が手に入り、念願の梨づくりに再参入できることになりました。それが1973年のことでした。それ以来、当地では45年以上梨栽培を続けています。

 

果樹栽培への憧れは、分家屋敷の庭には果樹などを植える余裕はなく、隣の家の庭の柿の木を眺めていたという子供時代の苦い経験があったといいます。また梨は園内に草を生やさせて有機質を供給するという草生栽培ができるからという理由もありました。野菜栽培は雑草との戦いで、その草むしりから解放されるという喜びが大きかったといいます。

 

牛のエサ用の草刈り、堆肥に積み込むための草刈り、野菜栽培での雑草との戦い、そして梨の草生栽培。まさに雑草とともに歩んだ祖父、雑草魂の人生と言ってもいいかもしれません。そんな祖父が始めた梨がわが家の梨栽培の歴史の始まりです。

(2018年7月)